![]() 2012年11月11日の制作時間、144分22秒。マンガ「南の魚」第4巻のアレコレ考え中。コミティア102で配布予定のチラシ作り中。したがきしてスキャンしてペン入れ中。 物語ってのは、成長のことであって、成人式とかイニシエーションとかいわれるものであって、子どもが大人になっていく過程でのさまざまなことを象徴化して物語にしたもので、そこらへんのことは、ウラジミール・プロップとかジョセフ・キャンベルとかが分析してたり、あるいは、ユングあたりの精神分析の本のネタだったり、文化人類学だの民俗学だののネタとして、いろんな本に書いてあったりする。最近では、大塚英志さんあたりが、そういうのをぶっちゃけたキャラクター小説の書き方本をたくさん書いてらっしゃったりする。 おれはあんまり学のない男なので、よくわかんないシロウトなりに、それでもいくつかそのへんの本を読んで、知ったかぶりしてマンガかいてたりするけどさ。物語の役割として、そういうことは、とっても大切なことにちがいないって思いつつ、おれ的には、すごくどーでもいいことなんじゃないかって、思ってね。 いや、どーでもいいことではないんだけど、おれに限って、その考えに捕われるべきではないというか…。方向性が、じつは違ったのではないかっていうような気がしてきちゃつてさ。 まあおれは、どっちかっていうと、意味なしナンセンスの表現に憧れてやってきたから、こういう意味も価値も求めぬ思考回路に、主人公の成長ってのは、あるのだろうか????? って、ここんところにひっかかっちゃうと、人間本来のココロの成長物語ってのは、おれにはむしろ足かせになっちまうかもしれない。 まあぶっちゃけ、その手のイニシエーションの物語ってのに、すこし飽きてきてるってのもあるかもな。大塚さんもたしか「物語消費論」なんて本を書いてらっしゃったと思うけど、いまはつぎつぎと、新しい物語が出来てはすぐに飽きられて捨てられていくヘンテコリンな時代でもありますからねえ。 しかし、意味なしナンセンスってのは、どのような仕組みなのかってのが、よくわかんなくってね。この仕組みのわからなさってのが、かいてて危うい。どうしていいか、わからん。どうしてなの? ってきかれてもどう答えていいか、わからん。 でも、この意味なしナンセンスは、禅問答に近いのかなって、きのうふと思ったんだけど、どうだろう。こんなこというと、禅寺の坊さんにしかられるかなあ。でも、子どものころ、一休さんのとんち話しと、禅僧のやりとりする禅問答を、似たようなたのしいハナシだなあと受け取ってたような思い出もあってね。現場のお坊さんたちの修行場のことは知らないけどさ、子どものココロには、似たようなテイストなのかなと。 だからつまり、ひとは物語をなんで読むの?? みたいなギモンにね、成長、イニシエーションっていったら、わかりやすいんだけど、意味なしナンセンスには、どんな価値があるの?? っていうギモンに対しては、どう考えていったらいいんだろうっていうことでさ。そこらへんのことを考えてたら、ふと禅問答のようなことに近いのか?? なんてかなり大それたことを考えてしまった。 まあそんな大げさなことではなくて、物語とはナンゾヤってギモンに対して、研究しつくされた型から離れて、もうちょっと柔軟に考えてみたいなあって思いましたってことなんですけどね。 |
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