「南の魚3」第1話のしたがき中
 2012年1月14日の制作状況。マンガ「南の魚」第3巻、第1話のしたがき中。行きつ戻りつ11ページの途中まで。ページ進んでねえじゃん。

 セケンバナシ

 いわゆる耽美的メルヘンファンタジーの世界のマンガや小説、そういうのがおれはけっこう好きでさ、面白そうだなあって思って本屋で買って、帰って読んでみると、アレレ、コンナハズジャナカッタノニって、ガッカリしてしまうことが多い。
 この感覚、どういうことなのかなってずーってフシギだったんですよ。
 おれのかくマンガも、もしかしたら、客観的にはその「耽美的メルヘンファンタジー」に分類されるものかもしれないし。たまーにそういう指摘をされることもある。
 で、そのことについていろいろ考えてみて、いまのところの結論のひとつ。
 おれは「耽美的メルヘンファンタジー」が好きなんじゃなく、「耽美的メルヘンファンタジーの破壊」が好きなんじゃないだろうか。「耽美的メルヘンファンタジー」の壊れていくさまに、ゾクゾクするような美を感じるタイプなんじゃないだろうか。

 耽美的メルヘンファンタジーの、これは、女性作家に多い傾向なんだけど、ストーリーも、登場人物も、モチーフも、すべて使い古されたステレオタイプの組み合わせ。丁寧にていねいに作り込まれた自動人形のような世界。ひたすら美しい細工を施した小説、あるいはマンガ。
 それはつまり、レーモン・ルーセルの「ロクスソルス」という小説に出てきたアカミカンスの中の世界のようなもの。
 アカミカンスとは、ルーセルの考えた空想の水で、その水を入れた水槽のなかに、死体を入れると、死体は死んだ日の動きを永遠に繰り返すという。
 そんなたくさんの死体の入った水槽をひとつひとつ、丁寧に解説していくような場面が、たしか小説「ロクスソルス」にあった。

 耽美的メルヘンファンタジーの世界ってそんな感じがする。
 これは美しいとみんなが知ってるモチーフの組み合わせ。それらの予定通りの動きと展開。

 おれは、そういうものが大好きなんで、文句をつけるつもりは一切ないんだけどさ。なんかいつも、そういう耽美的メルヘンファンタジーが大好きなひとたちのまえで、とてもすまないような気持ちになっちゃうんです。
 つまり、みんなは精巧なガラス細工のような自動人形を、大切に美しくつくることに夢中になってるようなんだけど、おれはそうやって作られた自動人形が、ボロボロにぶっ壊れるさまのほうに、美を感じるみたいだからなんです。

 で、ステレオタイプの組み合わせで、アカミカンスのような死体が決まりきった動作を繰り返しているだけの世界っていうのは、なにも、耽美的メルヘンファンタジーの世界にかぎったことでなく、いま、あちこちで起きていることだなあと思うんですよ。
 こんなもの壊してしまえば、もっと美しいのにって思うようなもの。
 じれったくてしょうがねえ。

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