![]() 2011年12月20日の制作時間、36分15秒。 マンガ「南の魚」第3巻、第1話のネームの整理と、第2話のしたがき中。だいたい18ページの途中まで。 数人の作家、マンガ家のかたがたが、自炊業者を提訴したってのが話題になってるみたいです。おれ、よく知らないんだけど、モノカキのひとたちで、自炊に反対のひとと、賛成のひと、電子書籍に反対のひと、賛成のひと、いろいろいるみたいですねえ。なんか、ネットを見ていて、意見が分かれているなあって思った。 自炊業者に反対しているのは、モノカキのなかでも、物語作家のひとが多くて、自炊業者もいいじゃんっていってるモノカキは、ジャーナリストみたいなことやってるひとが多いと感じた。電子出版に対する態度も、けっこう似たような感じに分かれるのかな。ま、ここでおれはテキトーな作文しているだけだから、マジメに調べてないんで、ハッキリしたこたいえませんが。 ジャーナリストとか学者さんとか、そういうひとが書く本は、なかに入ってる情報を使ってもらいたいわけだから、電子書籍も自炊もオッケーって思ってるひと多そう。 一方で、物語作家のひとたちの作る本ってのは、そういう使える情報を提供するのと、ちょっと違うんでしょうね。 そのことを、きのうは考えてまして。 んで、恥ずかしいことを言わせていただきますと、これはたぶん「愛」の問題なのだと思いましたな。 んーまあ「愛」っつっちゃうと、なんだかわかりにくいんで、ここでは、「愛」を、「対象に注がれた時間とエネルギー」と定義して考えてみようと思います。 自炊に似た行為で、おれ、子どものころにやってたことで、思い出したことがある。おれはマンガ雑誌を買う習慣のなかった子どもだったんだけど、いとこが読み終わったマンガ雑誌を大量におれにくれていた時期があるんです。プレハブのものおきで、そのマンガ雑誌を順番に並べて読むのが楽しみでね。んで、ひととおり読み終わって処分するまえに、お気に入りのマンガだけはバラして表紙つけてホチキスで止めて、冊子にしていた。そうやって、じぶんお気に入りのマンガセレクションを作って遊んでいたんですな。 なんでこれを思い出したかっていうと、こないだ萩尾望都先生のエッセイ集、「思い出を切りぬくとき」っていうのを読んでいたら、萩尾さんも子どものころに、似たようなことやってらしたみたいなハナシが書いてあったからなんですよ。先生のほうがおれなんかよりも本格的に作ってた感じでしたけどね。 で、これって、けっこう手間ひまかかることで、つまり、「対象に注がれた時間とエネルギー」なんですよ。「愛」のある行為でしょ。 最近は、音楽を聴くのは、もっぱらiTuneばっかりで、なんだか音楽の聴き方が雑になったような気がしている。CDの時代は、もっと一曲いっきょくを大切に聴いていたっけなあって、思うことが多いです。 でも、これ、レコード盤の時代から、CDが普及し始めたころにも、みんなが感じたこと。 昔はレコードで音楽聴くのって、儀式だったよねーって、よくいうともだちがいたなあ。確かに儀式だった。レコードにキズつけないようにそっとターンテーブルに載せて針を落とす。レコード盤は宝物だったなあ。 みんな、「対象に注がれた時間とエネルギー」が大切なんだってことをわかっているくせに、節約したくてしょうがない。「対象に注がれた時間とエネルギー」を節約して、より多くの情報を処理したいわけだ。 音楽を一曲いっきょく大切に聴いたレコードの時代から、iTuneの時代で、情報整理して、お気に入りだけをピックアップしてじぶんのライフスタイルに合わせて改変して使って、用が済んだらちゃっちゃと捨てていく。 本の場合は、音楽以上に、能動的にアタマ使って読んでいくから、読者に「対象に注がれた時間とエネルギー」を要求する。 しかも、ジャーナリストにとっての本は情報だけど、物語作家にとっての本は「愛」。作者も時間とエネルギーを使って本を書くけど、読者にも時間とエネルギーを使って体験してほしいって思っている。フォトリーディングみたいな速読法は、情報処理には向いているけど、体験的読書に向いてないのも、そういうことだ。 だけどやっぱりいまはその「愛」を節約して、「情報」を整理分類して、効率よく吸収したいっていう時代なんだろうなあ。 今回、自炊業者を提訴した作家さんたち、多作なベストセラー作家さんたちだち思います。だからみなさん「対象に注がれた時間とエネルギー」の仕組みをよくわかって、効率よくコントロールしてお仕事してるかたたちだと思う。だからこそ、読者からの、さらなる「対象に注がれた時間とエネルギー」の節約要求に、とまどってらっしゃるんだなと思いました。 このハナシに出てくる「対象に注がれた時間とエネルギー」の節約はふたつある。 ひとつは、電子化して情報を使いやすくするという節約。もうひとつは、そのための手間ひまを業者に任せてしまおうとする節約。 自分で買った本を自分でバラしてスキャンするのは、さっき書いた、おれがむかし、マンガ雑誌をバラしてじぶんの好みのマンガセレクションを作ってたのと同じで、「対象に注がれた時間とエネルギー」をけっこう使う行為なわけだ。だから、そこまでしてお気に入りの本を電子化して読みたいってんなら、それはとても素晴らしい読書になる可能性もある。 でも、そこに使われる「対象に注がれた時間とエネルギー」を節約して、業者に任せてしまうと、もしかしたらそれはすこしさびしい読書体験になるかもしれない。 ま、おれは自炊とか、電子書籍とか、そういうのに、いまのところ興味がないから、勘違いしているところもあるかもしれない。もしかしたら、おれの知らないすばらしい読書体験ができるのかもしれない。だから、いまのところ、そういうことに対して、否定も肯定もしていない。(ホントは肯定派かも) つまり、読書体験ってのは、情報処理と違って、体験なわけだ。手間ひまかかる。大阪に行くのに、新幹線で行くのは早いけど、歩いていくのは手間ひまかかる。「対象に注がれた時間とエネルギー」をたくさん使う。でも体験量っていうなら、歩いていくほうがたくさん思い出が出来るし、よりよく生きた気がするかもしれない。物語作家の目指している読書体験ってのは、そういうものなのかなって思う。 と、そんなようなことを考えていました。 でも、電子書籍も、自炊も、それが楽しいっていうひとがいるんなら、それはそれでいいとも思うし、おれもそのうちそういうのを買って楽しむかもしれないなあ。 電子書籍ならではの、物語の楽しみ方とか、そういうのが、これからどんどん考えられて、なんかいいかんじに進化していけば、面白いと思う。 まだこの問題は考え中。相変わらずの中途半端な作文で、失礼します。 |
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