「南の魚3」第2話、したがき始め
 2011年11月23日の制作時間、54分25秒。
 マンガ「南の魚」第3巻、第1話のしたがきできて、第2話のしたがき始めたところ。いまのところ17ページの途中まで。

 ユーチューブで立川談志の「金玉医者」みた。おもしろかった。
 こないだは「芝浜」もみたんだっけか。ちょっと長かったけど、あれもよかったなあ。
 けっこうユーチューブで落語みてるなおれ。

 第2話をどんな感じに進めるか、いろいろと考え中。

 おれはこの「南の魚」で、一切の自己表現的なことはしないと思ってかき始めたつもりなんだが、逆に、このやりかたのほうが、自分が出てしまうものかもしれないなあ。
 ホントは、誰でもない者がかいたマンガとして、この「南の魚」は、かきたかったんだよ。
 まえにも書いたことかもしんないけど、ホントは、本の表紙に作者の名前も入れないつもりで書き始めた。著作権も放棄したかった。それは、一切の自己表現、自己主張は入れませんよっていう意味で、そうしようって思って書き始めたんだよな。
 でも、あとで、作品に対して、無責任であってはいけないなあって思いなおしてさ。なんかトラブルが起きたら自分が責任を持つべきなんだろうっていう意味で、やっぱり名前も入れて、著作権も主張するほうがいいんじゃないかってことにした。たしか、都条例で、マンガを規制するとかなんとかいう騒ぎがあったころに、そんな感じに考えを改めたんだ。
 まあそんなわけだが、それでも当初の予定通り、作者の自己主張みたいなのは、入れないようにしている。そうすることによって、より、マンガの自律性を生かすことができるんじゃないかという仮説。まあそんなつもりでかいてます。
 しかしやってみると、逆にこのかきかたのほうが、じぶんがアラワになってしまう印象がありますな。マンガが自律的にアラワなほうに展開していっても、このコンセプトで前進すると、おれのエゴイズムでストップすることができないわけなんだから。うむむー。誤算であったか…。

 物語っていうのは、基本的に「成長すること」をテーマにしていると思っている。
 暴れん坊の主人公が、なんだかんだあって、最後に竜を倒して、さらわれたお姫様を取り返して結婚するパターンの、いわゆる英雄物語。途中に必ず挿入される、主人公がいっぺん竜を倒し損ねて生死の境で魔法を獲得する場面。そこに人間の成長するときの秘密がある。
 これは、よくいえば成長。わるくいえば洗脳。この人間のココロの仕組みを利用して、地下鉄に毒ガスをまいた宗教団体がいる。本当に気をつけなくてはならない物語の仕組み。

 しかし物語ってのは、なんだかんだで表現する気はなくても、作者の信念のようなものが出てしまうものかもしれない。それが下手すると、とってもアヤシイ印象を与えてしまうことがある。この本かいてるこの作者、ちょっとアタマおかしくねえか?? って思われてしまうかもしれない。
 で、それを回避する方法として、「作者の信念」の代わりに、「一般論」を使うって方法もある。
 これは、オタキングがユーチューブの動画のどこかで語ってたんだけどさ。うろ覚えだから、コトバ通りではないと思うけどたしかこんなようなこといってたっけな。つまり、ちょっと昔の価値観に合わせるのが大衆娯楽で、未来の価値観に合わせるのが芸術だとかなんとか…。
 んー、まあ芸術ってコトバを使うとハナシがややこしくなってイヤなんだけど、でもまあなるほどなって思った。もしかしたら、いまおれが書いた「作者の信念」と「一般論」ってのも、そのイメージに近いかもしれないと、僭越ながら思ったりして。
 たぶん物語のキーワードとなる魔法は、「作者の信念」の代わりに「一般論」を使ったほうが、多くのひとに共感してもらいやすいものができると思う。安心して読んでもらえるのは、きっとそっちのほうなんだろうな。でもたぶん、それだけでは未来をつくるチカラにはなりにくい。

 でもおれは、なんの主張も入れないナンセンスマンガとして、ひたすら無意味にかいているつもりなんだよな。
 どうか意味が伝わりませんように。

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