![]() 2011年6月10日の制作時間、114分3秒。 ネーム、35ページの途中まで。 第3話が33ページから始まるから、3ページの途中までかいた感じ。 2ちゃんのコミティアスレッドを、読めるとこまでさかのぼって、ざっと読んでみた。ここ数日かけて。あんまりマジメに読んでると時間がもったいないのでテキトーに。 なんか、コミティアに参加しているひとたちは、読み手のひとたちも、すごく真剣なんだなあって思った。読み手のプライドのようなものを感じてしまった。 おれなんかもしばらくご無沙汰してたとはいえ、たぶんおっさんのベテラン勢のひとりになるのかもしんないが、ベテランってのは、「慣れ」になりやすいのでねえ。「慣れ」でまったり、なごやかにやりたいのがベテランってもんなんなんだが、コミティアのひとたちは、そういうのは許してくんないのかな。ちっとヒヤリとしたりして。 おっさんってのは、若い奴らほど体力ないもんで、でもキャリアだけはあるからさ、そのキャリアを生かして、乏しいエネルギーを有効利用して、なんとかそれらしいものをでっち上げるわけだ。そしてひとはそれを「慣れ」というんだな。 ピカソとかマイルス・デイビスなんてひとたちは、その慣れを徹底的に排除して、常に真剣勝負に挑むわけだ。同じことを繰り返して、上達したらそのことはおしまいにして、べつのことに挑む。 マンガでも、そういう真剣さは、大切だよなあと思うんだけど、マンガってのは、なぜかその「慣れ」の部分も有効利用する表現なので、毎度のチャレンジが、ピカソやマイルス・デイビスのように明確に見えてこないところがある。 つまり、マンガの絵って記号でもあるからさ。 岡本太郎が、たしか「今日の芸術」のなかで、なんかの箱に「八」の字が書いてあるのが、よく見たら富士山の絵だった、なんてエピソードを語ってる。つまりその富士山は洗練されすぎて、慣れでかかれた記号絵になっちゃってるわけだ。そっから先のハナシは岡本太郎の芸術論なので、まあここでおれが語ってもしょうがない。 でも、マンガっていうのは、その「八」を利用して物語を語るわけじゃん。それって、外見は「慣れ」の側面があることを免れないわけだ。 理想をいえば、いつも真剣勝負で、なにもかもが新鮮で、一瞬一瞬が緊張感あふれる初めての体験であったらステキだけど、現実ってのはそうもいかねえ。ベテランになればなるほどそうもいかねえ。 ここんところをどーするかなんだよな。 でもあんまり理屈で考えてても答えは出ない。 結局わかんないなりにかく。ぶつかっていくしかないわけだ。なんかみえてくるかもしれないし、なんもみえずに終わるかもしらねえ。 だけどそんなことより体力だ。健康第一。これからの日本人は、放射能に負けないだけの体力を養わなくてはならんのだからなー。 |
この記事のURL |