あーあ、やっぱり…。
 去年無寸草の、井上さんの陶芸教室で、犬の焼き物つくらせていただいたことは書きました。正直いって、おれは陶芸関係はからっきしダメで、苦手意識が強かったのだけど、あのときすこしだけコンプレックスを解消することができた。やっぱりやらず嫌いなだけだったのかな、なんでもチャレンジしてみるもんだな、って思ってね、なんか新しい可能性をみたような気になってた。
 だからなんですね、また陶芸チャレンジしてみました。つくったのは、2月の1日。無寸草では、ギャラリー展示のない期間に、ときどき陶芸家の井上さんが陶芸イベントやってらっしゃるようで。その日も陶芸チャレンジャーが何人も集まって、楽しそうに粘土をこねてました。図工の時間みたいで楽しそうだなあ。
 その日は、土鍋をつくってるひとが何人もいらっしゃいました。最近流行っているのかな、土鍋の蒸し器。ナベとフタのあいだにもう一枚穴あきの粘土の床が入る構造の土鍋をみんなつくってました。
 おれはそんな本格的なのは無理そうな感じがしたので、遊びながらマグカップをつくりました。で、時間があまったので、こんどは鳥をつくってみました。和気あいあいの楽しい雰囲気に、積年の粘土コンプレックスがすっかり消えて、いい気分で楽しくつくって、焼くのはお願いして帰ってきました。

 で、完成品を受け取ってきたのが3月の7日。これです。



     



 あれれ、なんだこれはっ!?!?
 なんか小学生のときにつくった筆立てからまったく進歩してないぞおれ。
 つくってるときはすっかりいい気分だったのにな、出来上がったのをあらためてよく見ると、なんかすげーな、びっくりした。

 一応おれ、これでもプロのイラストレーターなので、こういうのはあまりサイトにアップしないほうがいいのかな。なにもなかったことにして、しらんぷりしたほうがいいのかもな。今後の仕事に差し支えるかもしれません。




     



 マグカップ、重いです。カラッポなのにマンタンに入ってる感じ。
 これつくってるとき、ホントいうと井上先生に、中をけずって薄くしたほうが良いというアドバイスをいただいてはいたのです。でも、おれすっかりいい気分になっちゃってたから、なかに絵をかいちゃったりしちゃってさ、そしたらもうけずるのやんなっちゃった。
 っていうことで、そのまま焼いていただいたわけです。こんなに重くなるなんてね、いやあ、やはり先生のアドバイスは聞くべきですね。

 昔、発掘のバイトしてたとき、掘り出された縄文土器を批評して遊んでいたっけな。ヘタクソな土器とか見つけて縄文人を笑ってたけど、おれもダメじゃん。人類進歩してません。



     



 鳥。

 ラドン?

 ラドンの雛ってことにしようかねきみは。

 おれ、今回のことでつくづく思ったんだけど、おれって、こういうのつくるときも、絵をかくときも、あんまり出来上がりを予想してないね。なにをかくか、考えるまえにかきはじめてしまうことがすごく多いです。ただただ、いい気分にまかせてかいてしまう。もしかしたらトランス状態っていうのかな? だから、あまり計画性の必要とされるようなものはつくるのがとても苦手だったりする。粘土をこねてるうちに、自然になにかができるのにまかせちゃうって感じなのだ。

 でもなんにも考えてないでつくるっていうことはさ、ほら、つまり無意識の世界がさ、おれにつくらせるわけだよなこーいうのをさ。ワカル?
 人間の無意識ってのはさ、ナントカさんの仮説では集合無意識につながってるっていうでしょ。それはたぶん宇宙とか過去とか未来とかのすべてをひっくるめたありとあらゆるものの意識とつながってるっていうことなんだよなきっと。だからね、それはつまりほら、これを読んでらっしゃるアナタの無意識ともつながっているっていうコトなんでしょ。
 そういう清らかな、透明な心をもってしてもういちどこの作品をみてみるならさ、ほら、なんか感じませんか?



 あー感じませんか、そうですか。





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