★  12月のもくじ  ★

Ω Ω  Ω Ω  Ω Ω  Ω Ω

12月7日(月)


12月12日(土)
12月18日(土)
12月24日(木)
12月31日(木)
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98.12月7日(月)

あれやこれやと‥‥。

 世の中の移り変わりに疎いぼくではありますが、すこしは気づいたこともあります。

 いつのまにか煙草が値上がりしてるじゃありませんか。まったくどういうわけなんですか。さすがのぼくも禁煙もしくは節煙しなくっちゃーなんてちょっと思ったぞ。そうしたらたばこ産業儲からないじゃないですか、まったくなに考えてんだか‥‥。

 コクヨのフィラー・ノートのデザインが変わった。
 まえになんかの本で、立花隆がコクヨのフィラー・ノートを愛用しているというのを読んで、ぼくもこれ使ってみたんだけど、そしたらとても便利で良かったので、あんまり人気なさそうだったこのフィラー・ノートなんだけど、いつまでもなくならないでねと密かに祈っていたものなのです。このノート、A5版はどこの文房具店にも置いてあるのだけど、B5版は置いてないところも多い。でも最近そのB5版だけ、表紙のデザインが変わった。なんかちょっと若者向けのデザインになったな。これで、またフィラー・ノート愛好家が増えるだろうか‥‥。
 このノート、便利なんだよ。


 こないだ書いたエリック・ロメールの短編集「六つの本心の話」、とっても面白く読み終わりました。
 これ、全部ロメール監督自身の手によって映画化された作品の小説なの。シナリオのつもりで小説書いたんだって。で、ぼくはこの本に出てきた作品の映画版はひとつも観ていない。これらの作品以降のものをいくつか観ているくらいでしかロメールを知らないわけ。
 この短編集で意外だったのは、ぼくはぼくはで語られる一人称形式の作品がほとんどだったってこと。ぼくが観ているロメール作品は、ナレーションもなく、音楽もほとんどなく、ストーリーを盛り上げるような演出もほとんどなしってかんじだったから、とても客観的な視点で作られた作品という印象をもっていたのだけど、この本に出てきた作品の映画版はどうなんだろう。
 ぼくの思い込みかもしれないけれど、まんがと映画は、一人称で語るとその世界に矛盾をきたす。だから一人称で語るのは小説の特権のような気がしています。小説のなかでこそ一人称の語りってのは輝いてくる。なんでかっていうと、まんがと映画はナレーション部分で一人称ができたとしても、画面の部分では主人公を客観視してしまうから。主人公が語る物語なのに主人公の視点に立った画面づくりが難しい。
 手塚治虫の「化石島」だったかな、その途中で、実験的に絵の部分でも主人公からの視点、つまり一人称をやってみていたのがあった。ときどきやるなら面白い。そういう意味では「化石島」は面白かったけど、でもぜんぶがそんな調子だったら読者は逃げ出すだろうなあ。
 とかなんとかいっても、ぼくはまんがや映画が一人称で語るのはいけないとかいってるわけではありません。そういった視点の矛盾もその作品の魅力のひとつだったりするのだから、ぜんぜんオッケーって思っている。つまり、映画監督エリック・ロメールの書いた短編小説を読みながら、そんなようなことをつらつら考えていたよっていうだけのハナシです。


 このホームページにあるストーリーまんがのコーナーには、旧作ばかりで新作がありませんが、まだしばらくはそんなかんじでしょう。でも新作ひさびさにかきました。10ページ、わっはっはー。かれこれ半年ぶりだなーまんがかくの、なんかつくづくナマケモノですねえ。
 来年1月8日発売予定のマイバースデイ増刊号、「まんが 恋はおまかせスペシャル」!!! ばばばーん。まかせてくれよ、恋のお悩み解決しちゃうよ(うそうそ)。よかったら読んでね。

 まあ、そんなかんじで、今夜はこれからまだ仕事だー。


もどります?

98.12月12日(土)

師走のコジマはでござる。

 なんか12月ってのは忙しいなあと、こないだ書いたけど、もっと第一線で頑張っているまんが家さんたちは、コジマなんかとはくらべものにならないくらい忙しいんだろうなあと考えてみたら、こんなとこで愚痴ってるじぶんが恥ずかしくなってきた。ほんとのこというとぼくにはまだまだ時間がある。

 こないだチャーリー・ヘイデン(b)とパット・メセニー(g)の「ミズーリの空高く」というCDを買ってきてね、これが思いのほかシックで心地良いアルバムだったので、とても気にいってしまった。ぼくは楽器同士のデュエットっていうのがまえまえから好きだったんだけど、またさらに好きになってしまって、そのあとビル・フリゼール(g)とフレッド・ハーシュ(p)のデュエット、「ソングス・ウイ・ノウ」を買ってきたら、これがもっと良くってさ、もう一日じゅうステレオのスイッチ入れっぱなしで、外出したくないわけですよ。至福の毎日、とろけちゃいそうどうしよう。
 ギターっていう楽器はジャズ系の音楽では比較的地味でつまらないという印象がぼくにはあったんだけど、マーク・ジョンソンというベーシストのひとがつくった「サウンド・オブ・サマー・ランニング」というアルバムを聴いて、そこでギターをひいていたビル・フリゼールとパット・メセニーのことが大好きになってしまって、それ以来ギターも悪くないなーなんて思っているのだけど、たしかそのことはまえにも書いた。
 でもパット・メセニーについてはフュージョン系のギタリストっていうイメージが強いからほかのものまで聴くほどの興味はなかったんだけど、でも「ミズーリの空高く」を聴いてみたらアコースティックですごくシックでよかった。もっときらきらしたギターを想像していたのだが意外に渋めだった。フュージョンってすごく70年代くらいの音ってかんじがしちゃうんだけど、最近はちょっと変わってきてるんだろうなあ。そのへんのことはくわしくないや。
 で、ビル・フリゼールとフレッド・ハーシュのは、こっちのほうがきらきらしていて、調度クリスマス・シーズンだし今の雰囲気にぴったりなので、ぼくとしては超オススメ。曲もスタンダードばっかりなので、入りやすい。ただ、これ置いてある店が少ないんだよなー。都内の大きい店じゃないとなぜかビル・フリゼール揃えてくれていない。ここ最近のビル・フリゼールって立て続けに絶好調なのになー。
 そのほかぼくが好きなデュエットものは、アート・ペッパー(s)とジョージ・ケイブルス(p)の「ゴーイン・ホーム」、ポール・ブレイ(p)とニールス・ペデルセン(b)の「デュオ」、リー・コニッツ(s)の「デュエッツ」、スタン・ゲッツ(s)とケニー・バロン(p)の「ピープル・タイム」、チック・コリア(p)とゲイリー・バートン(viv)の「クリスタル・サイレンス」とそれが入ってるライブ盤、キース・ジャレット(p)とジャック・ディジョネット(dr)の「ルータ・アンド・ダイチャ」その他いろいろ、ぜんぶ書いてもしょうがない。
 まあそういうわけで。


 もっと違うハナシにしよう。

 プールのことなんだけど、最近週イチくらいでかよってるっていったじゃん。ぼくは平泳ぎしかできないっていったじゃん。そのことなんだけどさ、新たに発見。ぼくは平泳ぎすらできていなかった。がっかり。
 なんかほかのひとの泳いでいるのをみていたら、ぼくの泳ぎはなんかヘンなの。息つぎができていないんです。ぼくは顔を出して3回くらい漕いで息を整えないとまた潜れないんだけど、みんなもそうだと思っていたんだけど、みてたらみんないっかい漕いですぐ潜っちゃうんですよ。たったいっかい漕ぐだけの間にどうやって息を吸うのかなー‥‥。それやってみたんだけど、溺れそうになっちゃった。もう恥ずかしくって、これじゃぼくはカナヅチと同じじゃないですか。
 というわけで、平泳ぎから練習しなくちゃなんなくなってきた。まいったなー運動オンチ。
 それから最近の流行は、カラフルな巾着みたいな水泳帽みたいでさ、あれも欲しいな。ぼくのは昔の銀色ゴム製のぴったり帽子なので、それかぶると宇宙人のグレイみたいになっちゃうんだな。巾着帽子のほうが断然カッコいい。
 あと、みんな水中眼鏡してる。してないのはぼくくらい。なんでみんな眼鏡してるんだろうなあ。ぼくもやったほうがいいのかな、なんの意味があるんだろう。
 もっと体型的にも自信がついたら監視員の男の子たちみたいなギリギリパンツにもトライしてみたい。あんなふうに半分おしりだしてプールサイドを歩いてみたいなー。
 市民体育館の温水プールとはいえ、スイマー道はなかなか奥が深いのだ。

 ではまた。


98.12月18日(土)

衛星経由フフノカノワの年末

 図書館で借りてきたライナー・チムニクの「レクトロ物語」(佐久間リカ訳、筑摩書房)を読みました。
 この本は、ずっとまえに読んだチムニクの「クレーン」(矢川澄子訳、岩波書店)という本(これも図書館で借りてきたんだけど)があって、主人公はたしかクレーンに乗ったっきり降りたくないっていうほどクレーンが好きなクレーン男っていうひとだったんだけど、そこで脇役として登場していたレクトロさんが主人公のおはなし。クレーン男は尊敬に値するまったくたいした奴だったんだけど、レクトロは全然たいしたことない奴で、どこにでもいそうな感じがする。そういう意味ではレクトロのほうが親近感がある。夢ばかりみているレクトロさんが、いろんな仕事をてんてんとして、クビになったりじぶんからやめたりしていくはなし。
 全然違うんだけど、ポンキッキーズでやってた「ポストマン・パッド」なんかを思い出してしまった。あと、初期のチャップリンの短編映画なんかも、浮浪者のチャップリンがいろんな仕事をしているけれど、そういうのを連続で観たときのようなかんじがした。楽しいストーリーなんだけど、なんだか物悲しい雰囲気、にぎやかなのにとても寂しい。(ラストはちょっと驚いたな‥)
 でもなによりこの本はチムニク自身の手によるたくさんの挿絵が素晴しくてよかった。「クレーン」の絵もよかったけど、レクトロは絵としてもキャラがしっかりしているから、まんがみたいにみえてうっとり。

 そのあとポール・ホーケンというひとが書いた「フィンドホーンの魔法」(山川紘矢・亜希子・訳、サンマーク出版)という本を読んだ。
 この本は実話で、人間が植物の精霊や牧神などと協力して、北スコットランドの荒れ地に信じられないくらい豊かな農園をつくってしまったっていうハナシ。
 植物と話したり、牧神と話したりできたらいいなあと、これを読みながらつくづく思ったのだけど、そうやってつくられていった農園にひとびとが世界じゅうから集まってきてしまうのがうっとうしいなあとも思った。こういう農園づくりって、あこがれちゃうけど、ぼくだったら目立たないようにやるのがいいな。いわゆる共同体になってしまうと、大勢のひとの面倒みなくちゃならなくなるものなあ。とはいえ、これはある種の神の導きによってできてしまったものみたいだから、当事者に選択の余地はなかったみたい。フィンドホーンは共同体になるしかなかった。まったくご苦労様です、えらいこっちゃ(いやマジで)。
 うん、でもこういう農業のやりかたがあって、それがうまくいくのならそのほうが楽しそうだから、はやいとこ世界中にひろまって欲しいなあなんて思う。うさん臭いような気もするのだけど、遺伝子組み替えのクローン野菜が世界中に広まりつつある時代、どっちがうさん臭いかって考えてみるとどっちもどっちな感じがするものねえ‥‥。

 つぎは、エーリヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」(高橋健二・訳、岩波書店)。
 ぼくはケストナーの語り口が大好きなのだ。なんか児童文学の基本っていう感じがする。まえがきあとがき教訓つきっていう本が素敵。
 児童文学って、ストーリーの運びが右から左へと平板になりやすくもあるから、まえがきあとがき教訓つきっていうのは物語を立体的にするいい方法だよなーって思った。
 あと、点子ちゃんがめちゃめちゃ可愛いかった。

 そのつぎ、いま読んでるところ。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「七つの夜」(野谷文昭・訳、みすず書房)。
 この本はボルヘスの講演の記録で、「神曲」とか「千一夜物語」とかのボルヘス・ワールド(?)をあれこれ語っている。この本ができたときボルヘス自身は「さんざん私につきまとってきたテーマに関して、この本は、どうやら私の遺言書になりそうだ」といったというのだけど、ぼくとしては「ボルヘス入門」っていう感じがした。ボルヘスの本のなかでは、すごくとっつきやすくて面白いし、ここからボルヘス読み始めるといままでの本もわかりやすくなってくると思う。
 たぶんこれは、翻訳の勝利。全編「です・ます」調で訳しているんだけど、おかげですごく楽しいボルヘスさんになっている。これがあんまり愉快だから、ぼくも途中でちょっとよそ見して「バベルの図書館」(「伝奇集」鼓直・訳、岩波文庫)読み返してみたんだけど、「七つの夜」での「です・ます」調を知ってしまったおかげか、まえに読んだときよりすごく入りやすくなった。なんかこれですごくいろいろな謎がとけたような快感があるんだけど、そう思うのはぼくが児童文学の語り口みたいなのが大好きで、ただ「です・ます」調だってだけで理由もなくクラクラっときちゃうタチだからかも。
 なんかぼくはいままでボルヘスの本にすごく魅力を感じていながらどこか入り込みにくさを感じてしまっていたんだけど、「七つの夜」のおかげで以前途中で投げ出していたいろいろな作品集がまた読みたくなってきた。嬉しいなあ。
 そういえば、大江健三郎の小説が、日本より海外でのほうがポピュラリティーを得ているのは、翻訳がわかりやすいのではないかというようなハナシを耳にしたことがあるけれど、だったら大江さんも「です・ます」調にしてみたらどうだろうって、ちょっと思った。いや、冗談です、失礼。

 んー、ほかには途中で止まってしまった本がいくつかあるけど、もう読まないものなら片付けようかな。年末大掃除。
 そうそう、創刊準備号から買っている「ナショナル・ジオグラフィック日本版」が、ぱらぱらっとめくったくらいで読んでいないのがもう半年ぶんくらいたまっている。ほんとはちゃんと読みたいんだがなー。

 「ナショナル・ジオグラフィック」で思い出したんだけど、立体写真っていうのはいろいろあってさ、こないだ「ナショジオ」が火星の写真とタイタニックの沈没してるところの写真を赤青メガネで覗く立体特集やったでしょ。あれ、めちゃめちゃ面白かったんだけどさ、でもね、普通の写真でも立体写真になる方法知ってる?
 これはずっとまえどっかのラジオでいってたんだけど、立体写真っていうのはふたつの目でみて、そのズレを利用して立体と感じるように作ってあるわけでしょ。でね、ふつうの写真を立体にするにはどうすればいいかってえと、ひとつの目でみればいいんだって。
 それ聞いて、ぼくもいろいろ試してみたんですよ。パノラマチックな写真を探してきてさ、顔の真正面に近めにおくの。片目をつぶってしばらく写真を眺めるわけ。ここで大切なのは顔を動かさず、写真も動かさないこと。開いているほうの片目だけをきょろきょろ動かしてそのパノラマ写真をしばらく眺めてみるわけなんです。
 そうすると、暗示にかかりやすいスナオなひとならなんとなく立体になったような気がする。目の前に遥かカンチェンジュンガの絶景が広がって、クラクラめまいがしちゃうかも。暇なひとはお試しください。がっかりさせちゃったらご免なさいね。

 ではまた。




98.12月24日(木)

クリスマスなんですから。

 このコーナーは日記ではないので、あんまり個人的なことを手あたり次第に書いてるってわけではありません。書きたいことは書くし、書きたくないことは書かない(書きたいことでもうまく文章にできなくて諦めることもたくさん)。最近のぼくの日常は、えっちらおっちら、やっとこさっとこやってるって感じです。はー(タメイキ)。
 でもね、こいつぁ書いておきたい、サンタさんはぼくのこと忘れてらっしゃらなかった。ああサンタ・クロース、サンタ・クロース、あなたのオヒゲにさわりたい。
 こないだ、いつもお世話になっている某学生新聞社の忘年会にお招きいただいて、行ってきたんです。そんで、そこのビンゴ・ゲームでコジマケン生まれて初めての一等賞、見事デジカメGETしてきちゃいました(ありがとうございます)。
 これはほんとにグッド・タイミングで、調度忘年会の前日にカメラのこと考えていたんです。いままでぼくが使っていたカメラが壊れたままもう何年もほったらかしていたんですが、突然にカメラの必要性を感じてそれ出してきてまた動くかどうか試してたところのつぎの日だったんです。カメラのことなんてもう何年も考えてなかったので、奇蹟のようなシンクロニシティーを感じてしまった。まあいままでのやつもフィルム式だし好きなやつだから、これはこれで直してまた使うかもしれないけれど。
 そんなわけでデジカメ入手、ホームページに写真も載せられるようになりました。これは使い方がわかってからね。


 こころ踊るうえの文章を書いたあとの後日談。
 当たったデジカメ、こいつをマックにつなげるインターフェイス・キットなるものが必要になり、そのことであちこち電気屋およびカメラ屋をまわりました。じつはこれがけっこうやっかいだった。
 このカメラをパソコンにつなげるインターフェイス・キットで、いま売られているものはコジマのマックのバージョンに合わなくってダメなの(トホホでしょ)。うちのMacintoshパフォーマは漢字トーク7.5.1なんだけど、現在売られているキットは7.5.5からなの。でも、このキット自体もバージョン・アップしてるみたいで、だからそのまえのキットがあれば、大丈夫だってんで、メーカーに問い合わせしてみたんだけど、あちこちのサービス・センターに電話してみたんだけど、すでに以前のものは製造終わっているみたいで、ないですって言われた。品物の回転のあまりよくない店にならまだ残っているかもしれませんって言われてしまった。けっきょくじぶんの足で探してくれってことだな‥‥。
 まあそんなわけで、なんだか絶望的な気持ちになりながら、どこかに商品の淀んだ電気屋はないかしらんと小型スクーター走らせましたよ、2年くらいまえに製造やめたというインターフェイス・キットを探して。
 それでどうだったかというと、意外にすぐにみつかったんです。ちかくに一軒だけイマイチぱっとしない電気屋があって、ここになければもうコジマには探せないなあと思っていたのだけど、やっぱあるところにはあるものですねえ。合わせて2日かかってみつけました、うちのマックでも使えるインターフェイス・キット。
 当たったデジカメが、最新型ではなくちょっと古くなりかかっていたやつだったのだけど、よくよく考えてみると実はそれが幸いしたのだろうなあ。もしも最新型のデジカメが当たっていたら、インターフェイス・キットも最新バージョンでしか使えなかっただろうと思うし、そうなりゃコジマのマックともつながらない。だからこれはぎりぎりのところで、コジマのマックとつなげることのできるデジカメを入手したということなのだな。ああよかったよかった(かさねがさねどうもありがとうございます)。


98.12月31日(木)

 

 こんちは、コジマケンです。
 最近目立った更新してませんが、こないだ「ON THE ROAD」というページをひとつ加えました。ずっとまえに思いきり自己主張できる場所を求めて路上に立って絵をかいたりしたことがあるのですが、そのときの絵でいまも残っているものを載せています。よろしかったらご覧ください。
 ぼくはひとまえで即興で絵をかくというのが昔からけっこう好きなんです。絵をかく行為はひとりでやるのが基本だったりするのだけど、でもひとまえでかくというのをときどきやると、じぶんひとりでは決してかけなかっただろうと思うようなものができてしまうときがたまにあります。これは音楽でもスタジオ演奏とライブ演奏がその本質に違いがあるようなもので、絵でも、ひとまえでかいたり友達とかいたりすることによって発展していくということがときどきあるわけです。そういったことに興味があって、このようなパフォーマンスをやってみたのですが、そのうちホームページづくりのほうにエネルギーがいっちゃいまして、いまは路上には出ていません。
 路上で絵をかくのは、ひとりでやるよりも友だちとやったほうが面白い。友だち同士でわいわいやっていると、通行人もどんどん参加してくれて大パーティーみたいになる。ひとりでやるときは、どうしてもみているひとたちはギャラリーとして鑑賞していくだけになってしまいがちみたいです。

 てなわけで、今年はこれでおしまい。来年もまたよろしく。

 それではばいばーい。

     コジマケン


もどりましょうか。